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鍵のかからない部屋に棲んでいた(Lyric)
1
鍵のかからない家に住んでいた
それは仮初めの家族のようなもので
屋根はあったが
夏の嵐が窓ガラスを叩けば
返事の代わりに私は庭へと放り出され
細い三日月さえもが雲隠れする
昏い夜に
滑り台に上り
錆を纏った黄色い柵に背を預け
膝を抱えて塵あくたの星を数えた。
飛蚊症のように、光が瞬くのを何と呼ぶのだろう
学校では教えてくれなかった
母親が初任給で買ったという
百科事典と世界文学全集と日本文学全集と
それからギリシャ神話と子供向けの聖書が
私の心のムシクイが黒く染まるのを
阻み
やがて私は鍵のかからない部屋に移った。
2
母屋では祖母がひっそりと
ブラウン管で深夜番組をみて
淵の剥がれた板張りの天井、豆電球の下で、
糊のついた清潔なさらしが巻かれた
じゃりじゃりいう蕎麦殻の枕で
寝返りも打たず
朝まで保たれた浴衣の裾の
先端を揃えて寝起きにはさらに
ぴしりと整え
私の学費を稼ぐのだと夕方になれば
自転車に乗ってホテルの清掃のパートに出ていった
名古屋コーチンの精肉卸しをやっているという小さな売店で
殻が茶色い卵を袋で買い
それはだいたい十二個から十四個
たまに店主がおまけだと言って、
昨日焼いたという甘い卵焼きをくれる
無精卵だから子は生まれない
だから残酷ではないよと
私は習ったが
無精卵の卵を生むために育てられる鶏の体は一つでも
生んで人間に与えた卵の数だけ
虚しく消費されているのだと
ずっと考えてはいたが
誰にも伝えることはできず
祖母が勧めるままに
大きな卵焼きを食べる
3
大学へ進学し、
鍵のかかる部屋に移ったが
台所や風呂トイレは共用で
風通しのよすぎる下宿だった
窓には鉄柵があり
昔ここは、病院だったのだと
寮母がいう
心配性の仮初めの母は
鍵をかけていても返事がなければ
扉を開ける人だった
ボイラーは故障して
風呂が湧かせないときもあったが
冷たい水でも、特に不便は感じなかった
共同玄関の鍵は簡易的なもので
その正面に私の部屋の扉があり
その鍵もまた簡易的なもので
壊そうと思えば扉ごと
外せそうなものでもあった。
共同玄関の鍵を忘れても
ガラスを叩けば誰かが気づいて
黙って開錠してくれる
部屋の鍵はかけなくても
備え付けのベッドと衣装箪笥と
勉強机があるだけで
特に盗まれて困るものはなかった
4
企業に勤めた
住むために割り当てられたのは
借り上げの社宅というもので
とても清潔で最先端の賃貸マンションの一室
始発駅だったので座れたが
終電で帰宅する帰路はいつも
いつしか滑り台の上から見た
公園の夜空よりも
真っ暗だった
餞別にと友人にもらったハムスターは
繁殖することもなく
出張中の私を
ひとり部屋で待ちながら
ひまわりの種の抜け殻のベッドで
埋もれるように死んでいた
命が尽きても悲しむことも
憐れむこともなく
その話を私は誰にもせず
まだ元気か、もう一匹どうかと尋ねる友人に
曖昧に返事を送った
5
長い月日を過ごす中で知ったことは
鍵などかけなくても
特に大きな問題は起こらないということだった
しかし今、5分買い物に出るとき
私は鍵をかける
家の中に猫を3匹残して
私がいない間に無遠慮な
通りすがりが
不躾にドアを開けて
誰かいるかと誰何するかもしれないから
そのときに猫が怯えて逃げ出すかもしれないから
刃物を持った変質者が
猫を狙って、切り刻み
首を遺していくかもしれないから
そんなことは耐えられない
そんなふうに奪われることは
耐えられない
ので
私は鍵をかける
ついうっかりなどという不届きな
ことは
それでもあるわけで
私は鍵をかけ忘れ
豆乳を背負って帰宅してドアが十センチ開いているのを見たときは
血の気が引いた。
呼びかけながら部屋に入ると
三匹の猫は返事もせず、室内でただ寝ていた
それぞれのお気に入りの
いつもの場所で
のうのうと
ただ
寝ていた。
それを平和と呼び
ああ私は今、幸せなのだと
安堵する。
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